梅田太郎 1981年7月13日 生まれ CRAFT INDUSTRY CO,LTD(ラオス)CEO SIAM ASUKA Co.,LTD(タイランド)CEO 「社長になりたい」という夢のもと、日本で会社を起業するが、失敗に終わる。 その後、サラリーマンを経て、26歳でラオスに渡り、CRAFT INDUSTRY CO,LTDのCEOに就任。 2011年に、タイランドでSIAM ASUKA Co.,LTDを設立し、同社のCEOとなる。 国内外問わず、様々な場所での講演等、東南アジアを中心に精力的に活動。少数民族保護運動にも取り組んでいる 2012年の7月には、プーケットフルマラソンに仲間と一緒に参加予定。 ─「人とのつながり」で普段から意識していることは何ですか? 海外で生活や仕事をしていますので、自分とは違う価値観や多様性を受け入れる事です。 ─例えば、どのような価値観の違いがありましたか? 私が居るラオスでは、待ち合わせ時間や約束に対して非常にルーズだったりします。だけどそこで、日本の価値観を押し付けても、向こうからしたら「お前らこそ、何をそんなに生き急いでいるんだ?」ってなっちゃう(笑) そもそも、人生観が違うんですね。 その人が仮に、日本人から見たら受け入れ難い性格だとしても、他にもたくさん良い所はあるわけだし、受け入れていこうと思っています。 ─現在、梅田さんはラオスで会社経営をされていますが、どのような経緯で起業をされたのですか? ラオスで私が会社を立ち上げたのではなく、日本でも事業を行っていた父親が、以前に作った会社でした。 ただ、その会社は当時もう倒産寸前の状態で、会社を立ち直すために自分が引き継ぐか、もしくはたたむのかを、見極めに行ったのがきっかけです。 2007年の頃でした。 会社の状況を確認すると「なんとかなりそうだ」と思ったので、引き継いで、立て直しを検討しました。 ところが、その矢先にとんでもないことが分かってしまいました。 ─それはどんなことですか? その会社の中心的存在だった工場長が横領をしていた事を見つけてしまったのです。 それを告発したけど、なかなか信じてもらえない。しかも、その時に私が会社をたたむ選択をしたら、その横領や倒産を全て私の責任にさせられる事態になっていったのです。 結果的に「たたむ」という選択肢はなくなり、私が引き継ぎ「やらざるを得ない」状況に追い込まれました。とにかく、このままだと倒産してしまう状況にあったので、即改善しなくてはならない。 それはもう必死でした。 ─その時は、どのような気持ちで望んでいたのですか? とにかく「やるんだ」という気持ちだけです。正直にいえば、最初は自信もなかったし、できないと思っていました。以前に日本で、会社を起こして失敗した経験もありましたし。ただ「やれるのか/やれないのか」ということではなく「やるしかないんだ!」という気持ちになっていきました。 しかし、そうはいっても、現実的には苦しい状況でした。社員への給与支払い日に、通帳見たときは愕然としましたよ。ここで支払えなければ、ストライキになる。その時の残高の数字は、今でもハッキリと覚えています(笑) ─そのような苦しい状態がどれくらい続いたのですか? 約2年間です。 ─そんなに長くですか! いや「よく2年で済んだな」って思いましたよ。もっと長くかかると思っていました。 “2年後には良くなる”と分かって待つのと“いつ良くなるかわからずに、終わりが見えない状態で耐える2年間”は全く意味が違います。当初はやっている事が、未来に繋がっているか分からない。全く先が見えない状態です。 それでもとにかく信じるだけでした。「絶対にできるんだ!やれるんだ!」という気持ちで前に進みました。 ─その後、会社は上向きになっていくのですか? そうですね。 会社って、変わる時はビックリするくらい一気に変わっていくんです。 社員のモチベーションも急上昇し、社員一人一人が、自らで考えて行動するようになりました。 そして「ついに会社の借金を完済できた!」という時は、本当に嬉しかったです。 それまで、取引先の会社に支払いを待ってもらっていたのが何より辛かったんです。 払いたいのに払えない。申し訳ない気持ちで一杯でした。 私の場合「期待に応えたい!」というよりは「絶対に裏切りたくない」というエネルギーが強いのだと思います。恩返ししたくても出来ない、自分への悔しさ、苛立ち。それが自分を押し上げる原動力になっていました。 そして感謝ですね。支払いが延びても、信じて待ってくれた会社さんたちが居なかった、間違いなく潰れていた。今でも頭が上がらないです。本当に、感謝しています。 ─ようやく光が見えてきて、気持ちの変化はありましたか? 「しっかりと前進できている」という喜びが大きかったですね。今の状況でも、よく人に「大変そうだね」って言われるんだけど、その2年間の状況を知っているから、喜びにしか感じないですよ(笑) 社員寮に衛星テレビを設置したりと、長らく「やってあげたい」と思っていた事も実現できるようになりました。 そして更なる前進の為、約6,000万円の投資をして、工場に新しい機械の導入を決め、タイランドにも新しい会社を設立しました。記念にと、自分の誕生日に合わせて、初出荷の飛行機を飛ばそうとした時に、信じられないような内容の緊急電話が掛かってきました。 ─それはどんな内容の電話ですか? 会社にとって、とても重要なある機械を操作できる人間は、当時一人しか居なかったのです。その彼が問題を起こして「警察に逮捕された」という内容の電話でした。つまり工場の心臓部に当たるその機械が動かせなくなってしまったのです。 さらに追い討ちをかけるようにタイで大洪水が発生します。それによって、タイからの原料が止まり、一切生産ができない状態になりました。「ようやくこれから!」という時に、何故こんな事にと。まるで仕組まれたドラマなんじゃないか、と思いましたよ(笑) ─それは辛い状況ですね・・・。どんな心境でしたか? 意外にも冷静な自分がいました。 そして「なんとかなる」ではなく「なんとかする」と心に誓いました。それは、似ているけど全然違います。パニックになっていた従業員も、そんな私の姿を見て、安心していました。きっと、以前の私だったらパニックになっていたと思います。 あの2年間の辛い時期を乗り越えた経験があったからこそ、やれると思いました。その時「自信がついたんだ」と、改めて自分の成長に気付く事ができたのです。 ─人とつながりを感じられるときは、どんなときですか? 自分が期待していなかった事で助けてもらった時ですね。 「何でそこまでしてくれるんだろう?」って。 メリット/デメリットで言えば、その人が私を助けることにメリットはないんですよね、どう考えてみても。 それなのに助けてくれた。そこにつながりを感じますし、恩返しをしたいと思います。 あとは、海外を拠点とした生活を送ると、やはり日本の友人・知人は徐々に減ってしまうんですね。仕方のない事なんですが。 そんな日本にもなかなか帰れない中で離れずに居てくれた人たちに対して、強いつながりを感じますね。 ─では、梅田さんにとって、ズバリ「つながり」と何ですか? 今ここに自分が存在している事そのものかな。 やっぱり、自分を見てくれている人が居なかったら、それは「自分は存在している」とは言えないと思います。いろんな人が居てくれているから、自分が存在している。そして、その人との関わりの数だけ"梅田太郎という人間"は居るのだと思います。その全てが大切なつながりです。 ─今後の夢や目標を教えてください。 2012年の夏にプーケットフルマラソンに初挑戦します。色々な国の人たちの仲間と一緒に、今はトレーニングに励んでいます。 あとは、しょうもないようなことで本気になって、何かのギネスに挑んでみたいですね。仲間と一緒にそういう事をするのが好きなんですよ(笑) もっと、大きな目標で言うと、私が若い時に「こういう人になりたいな」と憧れた人が何人かいましたから、私自身も下の世代の子たちにとって、そういう存在になっていきたいです。 ─下の世代の子たちに、メッセージをお願いいたします。 「自分には無理だよ」って簡単に思っちゃう事ってありますよね。“何かをやりたくても、なかなか飛び出せない気持ち”は、私にも痛い程わかります。だからこそ、自分の限界を決めて欲しくないんです。 人に「梅田太郎でも出来た事でしょ?」って思われるのは嫌じゃなくて、むしろ思って欲しいんです。それが大きい事であればある程。「この人は特別だから・・・」って思われるよりも「アイツでも出来たんだから、自分にも出来る!」って思ってもらいたい。 死んでない事 = 生きている事 ではないと思っています。 自分の限界を超えて、挑戦していって下さい。 ─ありがとうございました。
山田貴一 1973年5月16日 生まれ 株式会社SPマーケティンググループ 代表取締役社長 高校の時から社長になることを目標とする。 トラック運転手、人材派遣業、営業代行、テレホンアポインター、ホストなど様々の職種を経験。 2009年には株式会社SPマーケティンググループの代表取締役に就任。高校の時からの目標を達成する。 現在、グローバルコミュニケーションビレッジ構想を立ち上げ、多くの仲間と共に成長していくという目標を元に、仲間達や社員と共に精力的に活動中。 趣味は、ロードバイク。 休日は積極的に練習やレースに参加している。 ─「人とのつながり」で普段から大事にしていることは何ですか? 一度信じた人は、最後まで信じようって思っています。今でこそ笑いながら話せているけど、これまで散々人に騙されてきたからね(笑) 例えその時は一度分かれてしまっても、お互いのタイミングが合ったら、また一緒にできるって信じている。自分の時期とか相手の時期もあるから。 ─過去に騙されたり裏切られたりした経験に関して、今改めて思うことは何ですか? そういう経験をしてみて思うのは、そんなに大した事ではなかったということかな。その時は、そう思えなかったけど。そういうのが無ければ、今こうやって人を信じきるということはできなかったと思うね。 ─現在は会社経営をされていますが、経緯を教えてください。 高校卒業後は、ガソリンスタンドでアルバイトしていて、次に、トラック運転手になりました。 その後、ネットワークビジネスをやっていましたね。なんで始めたかというと「契約書にサインするまで帰らせない」ってなってね(笑) 結局「自分で商品を体験した方が良いよ」ってことで布団を購入しました。40万円だったかな。その後も浄水器とか美顔器、補正下着とかを次々と購入することになって、気付いたら合計で200万円になっちゃって(笑) で、そのまま200万円の借金を背負うことに。 ─その時の心境はどんな感じだったのですか? 今思えば、大したことないんだけど。 ただ当時は眠れなかったね。 とても払えなかったし(笑) だけど、とにかく稼がないといけないから、すぐに人材派遣の仕事に就くんだけど、半年くらいで辞めちゃったんだよね。 その後は、個人向けの「電話料金が安くなります」っていうサービスを売る営業の仕事を始めたんだけど、それが全然売れなくてね(笑) でも、稼がないといけないから必死で頑張ってたんだけど、突然そこの社長が夜逃げしちゃって。給料未払い(笑) ─色々アクシデントが重なりますね・・・。その時はどう思われたんですか? いや、もう必死だったから、とにかくすぐに稼ごうって(笑) ─その後は何をやられたのですか? ホストになったよ。 ─そのきっかけは何だったのですか? 実は、以前なんとなくホストをやりたいって思っていたんだよね。 まずは、池袋で働き始めるんだけど、半年くらいですぐにお客さんからお店出しなよってなって、出資してもらって店長になりました。だけど、1週間で辞めちゃった(笑) ─1週間ですか? 何が理由だったのですか? 結局、雇われ店長という立場だから、そこが違うなってなってね。その後は、建築現場で仕事を始めました。 その仕事をしばらく続けた後に、取引先に会社をやったらと言われたので、個人事業主を興すことになりました。 その時、営業代行の会社も一緒に立ち上げましたね。 でも今思うと、この営業代行会社の事業は早すぎたかな。まだ世の中に営業代行という考えがあまりなくて、結局うまくはいかず、事業は長くは続かなかったですね。 その後また浅草でホストクラブで働き始めたんですが、その初日に、最初の池袋のホストクラブ時代のお客さんがたまたま来ていて、赤羽のホストクラブに引き抜かれました。 そこで、その店を買い取った形にして、店長になりましたね。でも、スタッフに売り上げを持ち逃げされちゃったんです。 ─持ち逃げですか・・・。200万円の借金、勤め先の社長の夜逃げ、スタッフの裏切りと、いくつかマイナスの出来事が続くと、そこから抜けられなくなったりとか不安になったりはしませんでしたか? いや。今もそうだけど、どこか自信があったんだよね。絶対にうまくいくって思っていた。実際は、苦しめば苦しむほど嬉しかったよ。これで一つまた器が大きくなったなあって。とにかく20代はいろいろ経験しようって思ってから。だから、その経験はして良かったって思うね。 ─その後は、何をなされたのですか? コールセンターで働き始めました。不思議なことに、売り上げを持ち逃げされたその日に、かつての池袋時代のホストクラブのスタッフ仲間から「コールセンターで働かないか」と誘いの電話がかかってきました。それで、そこの会社の面接を受けに行くことになりました。 ─では、その会社で働き始めるんですか? 実は、その面接に落ちちゃったんだよね(笑) しばらくホストとか夜の仕事ばかりだったからどこか麻痺していて、格好もスーツじゃなくてジーパンだったし、金髪のロン毛だったからね。若かったんだよね(笑) ところが、その帰りにそのオフィスビルで、他の会社の人に声を掛けられました。「何で、こんな格好でここにいるんだ?」って。それで経緯を話したら「じゃあ面接をしてやる」ってなって、それで結局採用されてその方の会社で働くことになったんです。 ─では、その格好だったことが一つの縁になったんですか。 そう。何があるか分からないよね(笑) その後、その会社で働いて、オペレーターからスーパーバイザーを経て、マネージャーまでなりました。 でも、その会社が秋田に移転することになったんです。これからどうしようかってなった時に、かつての先輩で、すでに他の会社に転職していた人に、新しいコールセンターの会社にスーパーバイザーとして誘われたので、そこで働くことになりました。 ─それも縁ですね。 そう。しかもその誘ってくれた人が、後の奥さん。 ─それはすごい巡り合わせですね! 今の奥さんと付き合い始めるタイミングで、一度別のコールセンターに転職し、その後今の会社の前身だった株式会社日本SPマーケティングに入社しました。その時、誘ってくれたのが、かつて面接で落ちた後に採用してくれた方でした。 その後、ライブハウス・ミュージシャン・ファンをつなぐような音楽の事業を立ち上げようと思い、会社を辞めました。 ─そのビジネスはどうなったのですか? イベントを3回ほどやって、それ自体はうまくいったのですが、その時はまだネット環境が整っていなかったり、資金などが足りなかったりで。 残念ながら頓挫しちゃいましたね。 その後、また別の会社で働くのですが、以前働いていた株式会社日本SPマーケティングの体制が変わり、新しい社長が就任し、その方から「もう一度、一緒に働かないか」と誘われました。 そして、その社長が退任した後に、現在の株式会社日本SPマーケティングの代表に就任しました。それが、経緯です。 ─社長になるというのは、昔から思っていたのですか? そうですね、高校の時からずっと思っていました。借金があったときも、ホスト時代も頭の片隅には常に社長になることを目標としていました。 一度だけ、高校卒業後のトラック運転手をしている時に、このままずっと運転手をしていようかと思った時があったのですが、母親がふと「スーツで仕事をしているのが見てみたい」と言ったのを聞いて、ここで諦めてはだめだ、必ず社長になろうと決意しましたね。それは今でも覚えています。 ─これまで、たくさんの仕事に関わって、たくさんの人との縁があったと思うのですが、現在に至るまでに意識の変化はありましたか? やっぱり、これまでたくさんの人達にどこかで助けられて来たなって思うんです。ギリギリの所で。それが無かったら、死んでいたかもしれないよね。うまくいっているときは、自分の力だって思うんだけど、うまくいってない時って、今まで助けられていたことを実感する。 ほんと、感謝だなって。だから、最近は常に感謝するように心がけていますよね。先に感謝しちゃおうみたいな(笑) ─他には何かありますか? 自分の役割みたいのが、なんとなく分かってきたことかな。 今は、ハブになろうと思っています。場作りだったり、人をつないだり。 昔は、全部自分で動こうとしていた。 若い時は、なかなか他人を認められなかったし、誰にも負けないって思っていた。 でも今は、色んなスペシャリストがいて、それぞれが独創的な存在で、この人の良い所とこの人の良い所を繋いだらもっと良いものが生まれるみたいな感覚があって。 そういうことが自分の役割かなって思ってきている。 そうやって、自分も含めて「皆で共に上がっていこう!」という感じかな。会社経営に関してもね。 ─そのように意識が変わって、何か変化はありましたか? 明らかに出会う人が変わってきたかな。言葉で表すのは難しいけど、昔は、自分と同じかそれより低い意識の人しか会えなかった。 でも今は、自分よりもずっと意識とかモチベーションが高い人との出会いがいっぱいある。前は、愚痴を言い合って終わりみたいのが多かったけど、今はビジョンや夢を語ったりみんな活き活きしているよね。 ─「人とつながっている」と感じる時はどんな時ですか? 困っている時に助けてもらったり助けてあげることが出来た時には「つながっているなぁ」と思うな。具体的な何かではなくても、どこかで気にかけてくれているだけでもその人とは"つながってる"って思うよね。あとは、自転車が好きなんだけど、一緒に走っている時も感じるかな。 ─今後の夢や目標を教えてください。 簡単に言うと山田村を作りたい(笑) 例えばだけど自給自足みたいに、野菜が食べたい時は野菜を作ってくれる人がいて、車に乗りたい時は車を作れる人がいる。そういう感じが世界に広がっていったら面白いなって。今の資本主義と呼ばれているものとは反するんだろうけどね。そういう価値観を共有できるコミュニティを作りたいね。 ─ありがとうございました。
辰巳眞玄 1986年12月26日 生まれ FaceMap運営者 アバターマスター ひとつなカメラマン 高校卒業後、システム会社に入社。 3年半勤めた後に、アメリカに語学留学。 帰国後、異文化交流のボランティアなどを経験した後に、23歳で新たなシステム会社に入社。 その後「世界を平和にします」と宣言し退社。社会活動を開始。 2009年からFaceMapを始め、全都道府県の主要都市を中心に3,400人以上の笑顔の写真を撮影。 2010年に自己開発のアバター®コースと出会い、それを仕事とする。 2011年から「ひとつな」の写真撮影を担当。日本各地と世界を回りながら「人」の写真を撮り続けている。 ─「人とのつながり」において普段から意識していたり、大事にしていることは何ですか? 人に対しては、愛と関心を持って接することを大切にしています。 今までの沢山の人との出会いから、学ばせて頂きました。 ─FaceMap活動とはどんな活動ですか? また、思いついたきっかけも教えていただけますか? FaceMapは、笑顔写真の世界地図です。そのために、人の笑顔を世界中で撮影する活動を行っています。 初めて思いついたのは、寝ている時にふと、世界中の人の顔で作った地図が思い浮かんで来たんです。そして「これを作ったら絶対に面白い」って思って。 例えば、国によって、それぞれ特徴がありますよね。形とか色とか。アフリカだと、黒人の人が多いですし。ヨーロッパだったら、黒人の人もいるし、白人の人もいる。普段は意識しないで、ただ“イギリス人”や“どこかの人”って見ているけど、同じ日本人でも違っているし、黒人の人同士でも、もちろん違うんですよ。 そうやって、国ごとの笑顔を集めて25mほどの世界地図にしたら、アフリカからヨーロッパ、そしてアジアと、グラデーションのようになり、文化・環境・歴史がビジュアル的に分かって面白そうだと思ったんです。 そして、大きな地図をつくることで、本当にそこに人がいるんだ!同じ国でも一人ひとり違うって、分かって、見た人が、他の国の人や普段何気なく接している人に、もっと関心を持つんじゃないかと思ったんです。それがやろうと思ったきっかけです。 ─思いついてすぐに始めたのですか? いえ。思いついてしばらくは、何もしていませんでした(笑) ─実際にFaceMap活動を始めたきっかけは何かありますか? その当時、あるセミナーで面白い話を聞いたんです。 それは、岩の話で、大きな岩を一人で転がそうと思っても転がらない。だけど、それを本気で転がそうと信じてやっていると、何かあるんじゃないかって、周りが協力してくる。そしたら、ほんとに転がるんだよ。って話だったんです。 それで「そっか!本気でやらないと!本気でやろう!」って思って。その瞬間にFaceMapが思い浮かんできました。次の日にカメラを買って、アンケート用紙を作って、最寄りの田端駅でFaceMap活動をやり始めたんです。 ─それはすごいですね! 最初はどうやって声を掛けたのですか? 「あの・・・FaceMapっていう人の顔で地図をつくっているんですけど」って。そしたら、変な顔で見られました(笑) もう、めっちゃ汗かきましたよ!もう、背中にだらーって。緊張しまくって(笑) 怖くて怖くて震えながらやっていました。最初は、行くのが怖くて、正直嫌でした。 ─今までに何人くらいの方を撮影したのですか? 3,470人くらいです。 ─そんなにたくさんの人ですか! 見知らぬ人に街角で、そんなに多くの人達に声を掛けるのは、普通なかなかできないことですよね。そこまで続けるには、どんな信念があったのですか? うーん。それは世界平和のためですね。 今とその時で、世界平和に関する考えが変わったんですけど、その時は、愛とか道徳的なことって大事だと思っていて、様々な宗教の根幹となるものを探求してから、それを教えるような学校を作ろうって思っていたんです。 死ぬまでに世界中の6,000万人の人達にその教育を受けてもらうって考えていました。その数は、世界人口の約1%なんですけど。 その1%の人たちが、何か思いついたらそれを行動して形にできる人だったら良い世の中になるって思ったんですね。その光を見て死にたいと思っていました。 FaceMap活動は、実際に自分で考えたアイデアを現実化することで信頼を得て、その信頼で、学校作りや、それを運営する事業をしようと思っていました。 それこそが世界平和につながっていく。アホらしいかもしれないんですけど、その時はそれを絶対に信じていたんです。信じていたから、いろんな人に冷たいことを言われたり、無視されたりしても、次へ進み続けることが出来たんです。 ─世界平和の概念が、昔と今では変わったということですが、今はどういう考えになったのですか? たくさんの人たちと出会う中で、出会った人達とどんな態度で接するかというのが一番大事だと思いました。それは、相手に愛と関心を持つことです。それを、まず自分からやるということです。 それは簡単なことです。本当の世界平和は大きなものでも難しいものではなくて、誰にでもできることだと思ったんです。誰にでも出来ることだけど特別なことです。恋人を愛するのは、誰もがするけど、その一つ一つが特別なように。 ─それだけ世界平和の概念が変わったのは、やはりたくさんの人と触れ合ってきたからですか? それはありますね。色々な人と出会って、話をするたびに気づきがありました。 一週間で、数年分の気付きがある感覚で、あまりにも自分が毎日変わりすぎて、たったの一週間で、すごく長い時間を過ごしたような感覚でした。それは、魂に、頭と体が追い付いていない感じでした。 でも、はっきりと変わったきっかけは、他にあります。それは、FaceMap活動中に出会った、アバターのワークショップだったんです。それを通して自分と本当に向き合う体験をしました。その時に、自分自身が本当に心底の部分では自分を受け入れていない、愛していないということに気付いたんです。 だからこそ、みんなを好きと言ったりして、皆に受け入れられるような行動をしていました。そうやって僕の人生は、ずっと愛や関心を求めてきたんだと分かりました。本当はそんなことやっても一時的にしか満たされないのに。それまで与えてきたつもりが、逆に自分が求めていたんだと知った時はこの世界から消えてしまいそうなほど衝撃でした。 今まで世界平和のつもりでやってきたことが、違ったのかもしれない、単に自分の為だけだったのかもしれないって思って。愕然として、その瞬間生きるのが嫌になっちゃいました(笑) それまでFaceMapをやっていて「人は皆、愛とか関心を求めているなぁ」って感じていたんですけど、それは自分の中にあったことだったんですね。その後すぐに会社を休んで、フロリダで開催される9日間のアバターワークショップに参加して、徹底的に自分自身と向き合って、信念を変えることをしました。 ─自分自身との向き合い方が変わった時に、世界平和の概念が変わり、人との向き合い方も変化してきたのですね。 そうですね。自分が体験したように、少しでも多くの人達が、自分自身と向き合って本当の自分を受け入れることをすれば、本当の自分のままで人と繋がって、世界平和につながっていくと思います。 ─「人とつながっている」と感じるのはどんな時ですか? 体験としては3つあります。 まず1つめは、日常的な事で、特に用事とか無いけどただ会いたくなる人とは「つながっているなぁ」って思います。会っても特にすることはないんですが、会うだけで、本当の自分でいられるような安心感があるんです。その時は、つながっていると感じます。 2つめは、アバターマスターコース中でした。 ダンスを踊っている時。隣は初めて会った東欧の女性だったんですが、つないだ手から一気にその人のビジョンが伝わってきたんです。なにか、ゾワゾワするモノが、ぶわーっと腕から伝わってきて。何故かその人は泣いていて。同時に僕も感謝の気持ちに溢れて、一緒に泣いていました。 とても不思議な体験ですけど。その時、僕たちは本当につながっているなって感じました。 最後3つめは、母親に手紙を書いたときです。 ある日ふと、母親に手紙を書きたくなって。一通目は懺悔というか、僕はこんな汚い部分を洗いざらい書いた内容でした。二通目は母親や家族への感謝を書きました。その時は、まるでいつもの自分じゃない自分が書いているような感じで、不思議な感覚でした。 書いている間は、家族一人ひとりに寄り添っている感じでした。 自分の神聖な部分と母親の心の部分がつながっているような感覚です。書き終わった後は自分の中にあった何かが全部が流れて出て、それまで詰まっていた部分が透き通った感じでした。 ─今後の夢や目標を教えてください。 今は、アバターが世の中をより良くするために良い方法だと考えているので、それを仕事として、ちゃんとより多くの人に伝えていきたいと思っています。 最終的な目標は、よりこの星が平和で安心して暮らせるようになった後、人がありのままの自分を出せるような愛にあふれた場所を創りたいです。そこでは、自然もあって自給自足ができて、愛とか見えないものを大切する平和な空間にしたいです。 ─ありがとうございました。
ムーチョ 1980年10月16日 生まれ ミュージシャン 中学の文化祭で友人らとバンドをやることになり、家にギターがあったことをきっかけにギターを始める。 そこからギターの面白さにはまり、ミュージシャンになることを目指す。 高校時代にバンド「SeanNorth(シャーンノース)」を結成。20歳で一度解散し、24歳で復活、26歳でメジャーデビュー。 2年後、レコード会社の倒産をきっかけに、自主活動を開始。 ギター講師派遣会社の面接で、岩本浩佳に出会い、音楽性の一致や、偶然家が近所だったこともあって、2009年3月にギターデュオ「かりんとう」を結成。バーやライブハウスを中心に活動を行っている。 2011年7月から、生演奏とエアロビクスを融合させた「BEAT de 美人(ビートでびーと)」では音楽部門の監修と、新境地のベースを担当し、メインメンバーとして活動中。 ─「人とのつながり」に関して普段から大事にしていることは何ですか? 年齢を追うごとに考え方は変わってきていて、もっと若い頃は閉鎖的というか、自分の友達だけいればいいみたいなあんまり外には発信しないようなそうゆう感覚で。 だけど、バンドとかいろんな経験をしているうちに嫌でもいろんな人たちと知り合う機会が増えてくるじゃないですか。 そうすると、だいたい音楽をやっていると、遠くても知り合いの知り合いとかになるんですよ。 狭いから、絶対どこかでつながってくるんですね。あの人知ってる?って聞くと「知ってる知ってる!」ってなったり(笑) そうやって周りに人が増えてくるにつれて、いろんな話も出るし、世界がどんどん広がってくるのが分かったときに、積極的にそうゆう場があれば自分から行ってみようという風に、考え方がシフトしていったというか。 別に音楽の業種じゃなくても、何か集まりがあれば、昔なら面倒くさいから行かないって言っていたのが、今なら行ってみて、何か得られるかもしれないって感覚になった 。「BEAT de 美人(ビートでびーと)」もその一つです。 ─積極的に行動していくという風に、考えがシフトしたきっかけは何だったのですか? それはやっぱり、所属していたレコード会社が倒産して、自分たちで動き出してからですね。確固たるそうゆう考えになったのって。それまでは、会社が勝手にやってくれている部分が多いじゃないですか。だから任せちゃえばいいみたいな。 でも、無くなってからは、自分たちで動く機会が増えてきたし、自分自身でつながりを作っていかなくちゃいけない。やって行くうちに、その重要性というか、面白さに気がついたんですよね。 ─倒産というのは、痛みを伴う出来事でもあったわけですよね? そうですね。ただそのことによって、それまでが、いかに恵まれていたかに気づかされました。 それまでも、縁やつながりの大事さは分かっていたはずだったけど、会社が無くなったことで痛感して。倒産はもちろんショックでしたけど、それによって気づかされた事や、得たものは沢山あったので、今ではプラスに捉えられてます。 ─特に、今の自分に欠かせないつながりといえる人はどんな方ですか? 音楽ということに関してだけでいうと、中学の仲間ですかね。 「バンドをやろう」と言ってくれた仲間。 それがあったから俺もギター始めたし、そこからずっとギターを続けているし。 それは大きなきっかけとポイントだと思いますね。全員ではないけど今でも会ったりするし、つながりはあります。 ─その仲間たちとの心の関係性を言葉にすると何ですか? 心の関係性としては、感謝です。やっぱりきっかけを作ってくれたしね。 どっちかというと中学の頃は自分から何かをやろうというタイプでは無かったんで、結局誘われてなければ音楽をやってないと思う。だから今の自分もないだろうって。 ─では、どんな時に人とつながっていると実感できますか? もちろん、いつも仲間とはつながっている感覚はあります。 例えば、ライブのサポートとかで初めてやる面子もいて、それがステージ上でライブして、お互いアイコンタクトして、そのときにちょっと笑顔だったりすると、音楽を通してつながっているというか、通じ合っているなって、特に強く実感できます。 「同じ場所で同じ時間にお互いに楽しいことやってるよね、俺ら」っていうような空気だったり、仲間意識みたいものですね 。それは、ステージ上のメンバーもそうだし、お客さんもそうだし。ステージから顔を見ていると、そうゆう気持ちになりますよね。 この感覚がなければ、音楽を続けてないのかなと思います。 ─今後の夢や目標を教えていただけますか。 まだ会っていないミュージシャンだったり、お客さんだったり、たくさんいると思うんで、そうゆう人たちを増やしたいですね。 自分もどんどんいろんな人たちと知り合っていきたいし、そこから得るものだったり、お客さんだったら僕らのステージに来てくれて、「明日から頑張れる!」「こんな感覚は初めて!」とか。 ステージを見てなんらかの気持ちを家に持って帰ってもらえたらと思っています。 その為にはどうすれば人の心が動く音を出せるか、心も体も震えるライヴができるかっていうのを常に意識してこれからもやっていきたいです。 ようは感動したいんです、誰よりも自分が(笑) ─ライブに来てくれたお客さんにとって、どういう存在でありたいと思っていますか? 自分が他のミュージシャンのライブに行くときは、生の迫力だったり、CDとは違ったりとか、MCで演奏とは違ったそのミュージシャンの人間性が見えたり、あとはその音楽が好きで気持ち良くなれる、癒されるとかの何かしらの感情が動くと思うんです。絶対。 自分もそれで音楽が好きになったし、その感覚を楽しんでるんで。だから、同じ感覚をみんなにも感じてもらえたら嬉しいですね。 ─最後に、ひとつなに関して感じたや今後に期待することがあれば教えてください。 単純に面白いなって。どんな回答を誰がしてくるのかって思ったり。質問してきた人の写真を見て、会ったことないのに「この人はこんな人かな」って勝手に想像してみたりして楽しんでいました。 今後、「ひとつな」の出演者を集めてイベントをしてみたいですね。それこそ実際に会えたら、「ひとつな」が無かったら会えなかった人達だから、貴重なつながりだと思います。 ─ありがとうございました。
岩本 浩佳 1981年11月20日 生まれ ミュージシャン 3歳からピアノを始める。 中学時分のバンドブームで、ピアノ経験が活かせると考えたことで音楽に興味をもつ。 中学3年生のときに、ギラン・バレー症候群という難病にかかり、そのとき、同じ病室にいた年上の男性がギターを持っていたことで、ギターに出会う。 病気で手の握力がなくなったリハビリも兼ね、ギターを始めたことをきっかけに「これしかない」と確信。高校の進路を決める時期には、迷わずミュージシャンの道に進むことに決める。 その後、音楽の専門学校でギターの専門知識を学ぶ。専門学校を卒業後は、某有名アーティストの付き人を行いながら、積極的にアプローチして渡辺具義氏と寺田正彦氏に師事。JAZZ・アレンジ・黒人音楽などについて、さらに音楽の専門性を習得していく。 今まで培った音楽の知識、技術を生かして、ギター講師を開始。 ギター講師の派遣会社のグループ面接で、メジャーデビューも経験しているギタリストのムーチョと出会う。音楽性の相性が良かったことと、実家が近所という偶然も重なり、2009年3月にギターデュオ「かりんとう」を結成。バーやライブハウスなどで活動中。 スポーツクラブのフロントでアルバイトをしていたときに出会った、フィットネスインストラクターの倉橋照美と共に、2011年7月から、生演奏とフィットネスを融合させた「BEAT de 美人(ビートでびーと)」の活動を開始し、全国にムーブメントを起こすべく精力的に活動中。 ─「人とのつながり」に関して普段から大事にしていることは何ですか? 漠然ですけど、礼というか“礼儀"ですかね。こういう職業をやっているので、縁だったり横のつながりの大事さはすごく感じているので、やっぱり言葉使いはすごい気にするかなー。 あと、話し方に関わってくるか分からないですけど、話す中で「自分とはこういう人間だっていうことは伝えよう」と思っていますね。 ─特に、今の自分に欠かせないつながりといえる人はどんな方ですか? また、その人との心の関係性は何ですか? まずは、かりんとうの相方であるムーチョですね。 関係性は、パートナーという感じですかね。 ─お二人の出会いとギターデュオ「かりんとう」の結成に関して教えていただけますか? ムーチョとは、ギター講師の派遣の会社の面接で同じになって、その終わりに自分からお茶でもしませんかって声かけたんですよね。 そしたら、たまたま家が近いってなって。自転車で15分くらいかな。面接会場は都内で、家からは遠く離れていたし、その近さは、なんかテンション上がったんですよね。 一時面接は通ってるし、お互いにそれなりの技術は持ってるんだよねっていうのがあったから、余計につながっておきたいなっていうのはありました。話していても意気投合して、その帰りには今度スタジオ入ろうって話してましたね。 それが、かりんとう結成のきっかけです。 ─他にはいらっしゃいますか? あとは、「BEAT de 美人(ビートでびーと)」を一緒にやっている倉橋照美さん。彼女との関係は盟友という感じですね。同じ夢、目標を共有できているのもあるし、あとはやっぱり壁なしで話せる関係ですよね。 出会いは、僕が元々バーテンをやっていたんですけど、手あれがひどくて音楽に影響が出るから止めざるを得なくなって、その後スポーツクラブの受付のバイトをしたんですよ。そこで彼女が契約インストラクターで週一で顔を合わせてて、ちょこちょこ話するようになって。それがきっかけで仲良くなっていきましたね。 ─「BEAT de 美人(ビートでびーと)」についてと、それが生まれたきっかけを教えていただけますか? 「BEAT de 美人(ビートでびーと)」は、僕らかりんとうが音楽監修した生演奏とフィットネスを融合させたもので、音楽でもフィットネスでもない新しいジャンルのものですね。 元々、スポーツクラブでバイトしていたときに、研修とかでエアロビクスを体験したんですけど、そこでCDを流すんですね、でもその音がテクノなんですよ。ドッドッドッっていうような。それがしっくりこなくて、なんか面白くないなあって。 それを自分たちが自由にアレンジして、生演奏で迫力ある状況で踊ったら絶対楽しいんじゃないかって最初思ったのが、きっかけかな。倉橋さんも同じこと思っていて、意気投合して、「俺らならできるんじゃないか」って始まったんですよね。 ─他にもいらっしゃいますか? あと、音楽を教えてもらった寺田正彦さんと渡辺具義さんですね。 寺田正彦さんは、兄貴に近いかもしれないですね。 寺田さんとの出会いは、以前一緒に音楽をしていた仲間に紹介してもらったんですけど、積極的に自分からアプローチして、主に、リズムを教えてもらいました。黒人音楽に精通している方で、アレンジとグルーブに関しても教わりましたね。 渡辺具義先生はボスという感じです。少し怖かったかも(笑) 司令官みたいなね。渡辺具義先生は、専門学校時代のギターの先生だったんですけど、学校を卒業したあとも、プライベートで教えてもらいたくて、自分からアプローチして個人的に教えてもらいました。3、4年くらいだったかな。 あとは、寺田正彦さんを紹介してくれた当時の音楽仲間の一人ですね。彼女とは戦友の関係ですね。同じ戦を戦った仲間という感じですよね。その人ともすごい深くまで話せたんですよね。ぶつかったりもしましたし。お互い無名な時代から、のし上がろうみたいのもありましたし。 最後は、やっぱり両親かな。病気が多かった僕を支えてくれましたよね。両親がいなかったらそれこそ死んでいたと思いますしね。関係性としては、似ている部分がある分、反面教師ですね。 似ているところは、自分がこうと思ったらこうというような頭の固い部分とかですかね(笑) 母親は優しくて、繊細というんでしょうか。そこは継いでいるかなと。まあ、あんまり自分の優しい部分は良く分からないですけど(笑) ─どんな時に人とつながっていると実感できますか? やっぱり音楽をやっているときですね。 それは、「ステージ上だ」と言おうと思ったんですけど、ステージだけじゃないなと。 曲を作っているときとか、リハーサルしているときもそうですし、実際に音で意見交換をしているときかな。 なんか、言葉以上のつながりを感じますね。言葉って嘘付けるけど、音って嘘つけないじゃないですか。 だから、音楽をやっているときですかね。 初めて、一緒に音を合わせて、その音を聞くと、相性も分かるし、その人がどれだけ音楽に対して向き合ってきたかは分かりますよね。 あと、人間関係って大事ですよ、音楽は。一番感じますね。 ─ミュージシャンならではの感覚ですね。とても興味深いです。では、今後の夢を教えてください。 やっぱり上に行くこと、有名になること、そして認めてもらうことですね。 もちろんお金も欲しいし、チヤホヤされたいけど、それは通過点でしかなくて。 自分がやってきたことを認めて欲しい、受け入れて欲しいということですね。まあ、僕自身を受け入れて欲しいということになるんですかね(笑)たくさんの人の心の中に自分が居られたら幸せだなって、ずっと昔から感じていたので。そうゆう風に思いますね。 ─ひとつなに関して感じたこと、期待することがあれば教えてください。 企画の新鮮さを感じましたよね。すごく面白かったですよ。今後は、メディアとかに取り上げてもらって、もっと大きな動きなったらもっと面白いですよね。今は、黒板という媒体を通して回答を出しているけど、その媒体が変わっても良いと思いますね! ─ありがとうございました。
倉橋 照美 1981年1月21日 生まれ フィットネスインストラクター 学生時代からスポーツに励み、高校を卒業後4年半経理の事務職に就職。 その後フィットネス、エアロビクスの楽しさ、心地よさを感じ、その楽しさを伝えたいとインストラクターを目指す。 現在は、インストラクターとして、大手スポーツクラブと契約し、フィットネスのDVDに出演するなど積極的に活動。 友人関係であったギターデュオ「かりんとう」と、生演奏とフィットネスをコラボする「BEAT de 美人(ビートでびーと)」を企画。 2011年7月に1回目を開催。 新たなジャンルを確立し、大きなムーブメントを起こすために活動中。 ─「人とのつながり」に関して普段から大事にしていることは何ですか? 感謝と笑顔ですね。 レッスンに来て下さった方への感謝。参加頂いた方を笑顔で接したい。もしかしたら、その日だけかもしれないけど、そういった思いで接すれば、次、次とつながっていくのかなと思いますね。だから、次につながるように、その人を楽しませようとか、笑顔で接しようって心がけていますね。 ─その出会いに感謝というのは素敵なことですね。では、今の自分に欠かせないつながりといえる人はどんな方ですか? 両親です。 お父さんは、人を楽しませたいっていうタイプで、それでいてしっかりものです。お母さんは、どちらかと言うと天然?、すごくかわいくて優しい人です。 二人とも私をとても大切にしてくれて愛情を注いでくれているのが、幼い頃から感じていて、いつも味方でいてくれるって信じられるから、私は人を疑わないでいられるんですよね。 両親に対しても疑ったこともないから、人に対しても裏切られるっていうのも思わないタイプで。まあ、それじゃ危ないよって言われるんですけどね(笑) でも、そういうところが、私のコミュニケーションにつながってくると思うんですよね。 ─先ほどの笑顔と感謝という考え方に、ご両親から頂いた影響が現れているんですね。何か、ご両親とのエピソードはありますか? 両親との思い出で特に嬉しかったのが、記憶の中に二つあって、一つは、良く小学生のときって自分の誕生日パーティとかやるじゃないですか。 でも「今年はできない」って言われたときがあって、だけど私はどうしてもやりたかったから勝手に友達を家に呼んじゃったんです。怒られるなって思ったけど、お母さんは急いで、食事とかケーキとか買ってきてくれて準備してくれました。申し訳ないって思ったけど、でも、私の友達のためにもおもてなしをしてくれて、すごく嬉しかったのを覚えています。 私の友達が私のために集まってきてくれているのを見たから、お母さんもその想いに応えたいって思ってくれたのだと思います。 もう一つは、ある時、親友が親と喧嘩して家出をするといって、私の家に急に来ることになって。ちょうど親は、どこかに出かけようとしていたのですが、それをキャンセルして、迎えに行ってくれて、その後3ヶ月間家に泊めてあげることになったんですね。 そんなの普通は、当日に「いいよ」ってならないじゃないですか。それで、友達が親と仲直りして実家に戻ったときに、お父さんが「照美を頼ってくれたことが嬉しかったから応えたかった」って言ってくれたんですよね。それは、ほんと嬉しかったですね。 ─他にはいらっしゃいますか? やっぱり、今私にとって、「BEAT de 美人(ビートでびーと)」が大きいので、そう思うと、一緒にやっているギターデュオの「かりんとう」の二人ですね。 かりんとうとは、私がフィットネスのインストラクターを始めたときの、スポーツクラブのフロント(受付)にかりんとうのメンバーの一人(イワチャン)が働いていたんです。それが出会いのきっかけですね。 ─「BEAT de 美人(ビートでびーと)」について詳しく教えていただけますか? 「かりんとう」のライブにお客として参加していました。そのライブで、自然と体が動いている自分に気付いたんですね。 私は、普段から、人がどのように楽しく体を動かせることができるかを考えていて、私の考えは、心が動けば、体も一緒に動くと思っているんです。体が先ではなくて、心が先ですね。 だから、かりんとうの音楽を聴いていて、体が自然と動いていたのは、心が動いていたんだと思ったんです。 そのとき、生演奏とフィットネスをコラボさせたら、絶対に楽しい!って直感的に感じたんですね。やってみたら、想像していた以上に楽しかったですね。 スタジオでエアロビクスをしているときは、CDをかけながらやるので、音楽に合わせなくてはいけないんです。でも、生演奏だと、その場で早くしたり、遅くしたり、何度も同じところをリピートしたり、音楽自体を楽しみながらやれるのが新しかったです。 ─聞いているだけで面白そうですね!かりんとうのお二人だからこそ、そのアイデアを形にできたという感覚はありましたか? そうですね。私は、人が人を呼ぶって思っているんです。 例えば、「BEAT de 美人(ビートでびーと)」のアイデアを思いついても、仮に私にミュージシャンの知り合いがいなくて、このアイデアに賛同してくれるミュージシャンを一から探したりしたら、うまく続けられなかったかもしれません。 最初にまず、かりんとうとのお互いの信頼関係、つながりがあって、その中ですごく自分を出せているから、アイデアを形にしながら、夢を共有できる楽しさを味わえているんだと思います。個人の夢って言うのももちろんいいと思うんですけど、みんな同じ夢を持って、一緒にできてるっていうのが幸せだなっと思いますよね。 やっぱり、居心地の良い人といると、どこにいても何を食べても楽しいじゃないですか。だから、私にとって、かりんとうの二人との関係があったから、「BEAT de 美人(ビートでびーと)」のアイデアを形にして来れたんだと思います。 ─どんな時に人とつながっていると実感できますか? 言葉が合っているか分からないですけど、必要とされた時ですかね。 私という人間を必要として仕事を依頼してくれたりだとか、私とご飯を食べたいって思ってくれたりだとか、私と話をしたいだとか、応援してくれたりだとか。そういう人達との関わりは人とのつながりを感じますね。逆にこの人から学びたいとか吸収したいって思ったときに、その人ともっとつながりたいって思いますよね。 人って絶対に、一人では生きられないというか、もちろん一人でも生きていけると思うけど、人とつながることでの幸せとか、気づきとか、学びとか、ぬくもりとか、人とつながることで自分も成長できたりすると思うんですよね。 自分一人での幸せもあると思うんですけど、人とつながることでの幸せはもっと大きいものだと思うんですよね。だから、人とのつながりを大切にしたいって思いますね。 ─「BEAT de 美人(ビートでびーと)」の企画を動かすようになってから生まれた新たなつながりはありますか? たくさんありますね! まず、ミュージシャンの方々とのつながりですよね。フィットネスの仕事だけだと、その業界だけのつながりしか広がっていかないのですが、音楽をやっている人との交流が増えたのは嬉しいですね。 あとは、テレビ業界、芸能関係、広告代理店の方々とのつながりができています。 面白いのが、それまでフィットネスの生徒さんだった方がいらっしゃるのですが、その方とはもう何年もの付き合いにで、「BEAT de 美人(ビートでびーと)」の企画を話したら、芸能関係やテレビ関係などの人とのつながりを作っていただきました。 今までその方にそんなつながりがあったなんて知らなかったんです(笑) ─「BEAT de 美人(ビートでびーと)」の企画が、それまで気付いていなかった新たなつながりを生み出したんですね。では、倉橋さんの今後の夢を教えてください。 「BEAT de 美人(ビートでびーと)」で日本にムーブメントを起こしたいです。もっとたくさんの人に楽しんで欲しいですね。夏のフェスティバルにも出たいですし、日本全国をツアーして回りたいです。 「BEAT de 美人(ビートでびーと)」が、音楽とかフィットネスの枠組みを超えて、それまでライブハウスとか、フィットネスに縁遠かった人たちも取り込んで、新しい感覚のエンターテイメントを確立したいと思っています。 ─ひとつなに関して感じたこと、期待することがあれば教えてください。 やっぱり人はいろんな環境の違いで価値観も違うじゃないですか。ひとつなに関していうと、例えどんな答えが来ても受け入れられるなって。相手を知らないから良い意味で期待しないというか。 知ってる人だと、こういう答えみたいのを期待しちゃう部分もあると思うんですよね。今後、ひとつなに参加した人とかが実際に会える懇親会があったら面白いですね! リレーでこういう風に回答している人が、実際はどんな人なのかなっていうのも気になりますよね。 ─ありがとうございました。
